自分40年史 (保育園)
2009/11/30
自分の記憶をたどってみると、3歳か4歳位からのことしか覚えていない。それも、大半はぼんやりしたものだ。ちょうどそれくらいから保育園に通ったのだが、最初の保育園は馴染めず、3ヶ月くらいで辞めたらしい。当時は人見知りが激しく、知らない人と喋ることなどできなかった。人見知りは小学校を卒業するくらいまで続いた。
今の実家に引っ越してきたのが、確か5歳のときだったと思う。当時の人口が1万人に満たない小さな町で、通った保育園は1学年に1クラス。全員が同じ敷地内の小学校に持ち上がりだった。この保育園には馴染め、友達もできた。
保育園時代の記憶で、強烈に焼き付いていることがいくつかある。どれも今の自分の原型とも言える出来事である。
1つ目の出来事は、母が漕ぐ自転車の後ろに乗っていたとき、かかとがスポークに引っかかり、血だらけになってしまったのに、声ひとつ出せなかったこと。もちろん痛かったはずだが、痛いと言えず、ずっと我慢していた。後で気付いた母がびっくりし、何故すぐに言わなかったのかと聞かれたが、うまく答えられなかった。
実は、未だにとっさのことに声を出せないことが多く、「危ない!」とか「すみません」という、普通なら反射的に出るような言葉が出てこない。正確には、心の中では瞬時に叫んでいるのだが、それが声になって外には出てこない。
また、相手のことを非難したり間違っていると指摘できず、自分さえ我慢すれば済むとか、まずは自分の悪いところを直してからと思ってしまう。血だらけになっても、かかとをスポークに引っかけた自分が悪いと思ってしまうのである。それは今も変わらない。自分の考えが相手に通じていなければ、自分の説明が悪いと思い、自分が頼んだことが期待通りに成されていなければ、自分の頼み方が悪かったのか、頼む相手を間違えた自分が悪いのだと思ってしまう。
2つ目の出来事は、親子遠足の時、母が敷物を忘れてしまい、仕方なく新聞紙の上で食べなくてはいけなかったのが、この上なく恥ずかしかったこと。新聞紙の上で食べるのが堪え難いほど格好悪く感じ、かと言って芝生の上で食べるのは芝生が痛くてとても食事どころではなく、どちらも嫌だとダダをこねたのをよく覚えている。結局、どうやって食べたのかは、全く記憶にない。
30代の前半くらいまでは、周りからどう見られているかを気にし過ぎていたように思う。優等生タイプに見られがちなのは、そういうのが影響しているのかもしれない。さすがに今は、もう少し気にした方がいいくらい、鈍感になってきた節があるが。
そして3つ目の出来事は、同じく親子遠足の時、広島空港での集合写真の際に、何故か泣きじゃくり、ひとりだけ先生に抱っこされて記念撮影したこと。どうして泣いていたのか、自分でも全く覚えていない。その頃から、精神的に弱かったのかもしれない。
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