自分40年史 (小学校)
2009/12/01
町内には公立小学校が5校あったが、そのうち3校が1学年に1クラスで、自分の通った小学校もその1校であった。ほぼ全員が同じ敷地内にある保育園からの持ち上がりで、みんな顔見知りばかり。運動会も学芸会も保育園と合同でやってたくらいで、小学生になったからと言って特別なことはなかったように思う。
12月生まれということもあり、ずっと身体は小さく、しかも痩せていた。そのせいか、運動能力も平均かそれ以下だった。泳げるけど特別速くはなく、球技はできるけど特別上手ではなく、運動オンチまでいかないが、どちらかというと補欠組だった。対照的に3歳下の弟はスポーツ万能だったので、長い間コンプレックスだった。ただ、父が毎年スキーに連れて行ってくれたおかげで、唯一スキーだけは人並みにできるスポーツであり、これだけは今でも貴重な財産である。
低学年のときは、とにかく本が大好きで、毎日のように図書室に通い、多くの本を借りては読んだ。両親と買物に出かけたときも、紀伊国屋で座り込んで本を読んでいたのを覚えている。学研の科学と学習を6年間購読し続け、毎月、とても楽しみにしていた。将来の夢は学者になること。寝言でも学者になりたいと言ってたらしい。
お盆とお正月には近所に住む祖母が本を買ってくれたが、普段は買えない小学x年生シリーズを読めるのが楽しみであった。ただ、母の方針でいつも1つ上の学年のものを買っていた。1年生のときは小学二年生を買い、2年生のときは小学三年生を買うと言った具合である。6年生になったとき、買う本がないと悩んだ末、もう一度小学六年生を買えばいいじゃないかと気付いたときは、天才じゃないかと思った。
1年生から習い始めたピアノは、4年生まで続いた。ピアノ自体は嫌いじゃなかったが、とにかく練習が嫌いで、いつも課題曲を1日に1回弾いておしまいだった。また、近所に住んでいた同じクラスのカツミちゃんは3歳位からピアノを弾いていたこともあり、いつも圧倒的な才能の差を感じていた。大人になってから母にその話をしたら、そんなしょうもないことを気にしていたのかと言われたが、本人にしてみれば絶対に自分が到達できない領域を目の前で見せつけられた初めての出来事であった。ちなみに、カツミちゃんは学業も優秀で、後に県内最難関校である国立高校に進学し、某国立大学の歯学部に現役合格した。母によれば、今も歯科医師として活躍しているそうだ。
ピアノを辞めた後は、珠算、書道、英語を習った。最も重なったときは、週に4日が習い事の日であった。両親から勉強をしろと言われたことは一度もなかったが、今思えば、教育熱心だったのかもしれない。
ちなみに、学校の成績は常にオール9。今の小学校では考えられないだろうが、成績は絶対評価の10段階。通常のテストの平均点と期末テストの点数を比較し、高得点の方を10で割ったものが成績になる。つまり、体育や音楽を除けば、テストの平均点が常に90点台だったということである。目標は1科目でも多く10を取ることであった。だが、あくまでも学校の成績であり、今の中学受験の基準に照らし合わせれば、遥かに低次元な話だと思う。
実は、教頭先生に国立中学の受験を何度か勧められたが、友達と離ればなれになるのが嫌だという理由で断った。それくらい、中学受験は特別なことであり、競争などない、のどかな田舎であった。
2年生から6年生まで、何故か3学期の学級委員に選ばれ続けた。6年生のときには、児童会長も務めた。リーダー気質というのもあるが、とにかく真面目だったので選ばれたのだと思う。4年生のときから眼鏡をかけていたので、見た目も中身も真面目そのものであった。ただ、真面目の度が過ぎたのか、6年生のときの担任の先生からは、「自分に厳しいのは構わないが、それを周りの人にも求めてはいけない」と教えられた。これをきっかけに、周りの人に期待することを止め、結果、周りの人を頼らない生き方になった。30代になるまで、誰にも相談をせず、何事も自分で決断し続けた。
6年生の時、父が突然にパソコンを買ってきた。当時(1981年)はパソコンではなくマイコンと呼んでた時代で、アメリカのコモドール社製だった。大人になってから父に聞くと、これからはコンピュータの時代がやってくると思ったらしい。最初はゲームばかりしていたが、そのうち見よう見まねでプログラムを書くようになった。解説本に書かれた三角関数って意味がわかんないと思いながら、いろんなことをやってみたものだ。大人になって、コンピュータを使う職業に就くとは、この時は夢にも思わなかった。
コメント