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ラグビー大学選手権 準決勝へ

我が母校、明治の快進撃が続いていますhappy01。本日行なわれたラグビー大学選手権の2回戦にて、関西大学リーグの王者である関学に62-29の大差で圧勝しました。お正月に明治の勇姿を見られるなんて、何年ぶりのことでしょうかcrying

先週行なわれた1回戦では、関東第5代表の拓殖大を相手に苦戦した様子だったので、さすがに関西の王者が相手じゃ厳しいかなと思っていましたが、自分が学生時代の明治がよみがえったかのような素晴らしい結果でした。

次の準決勝は早稲田を倒した帝京相手なので、かなり厳しい戦いになるでしょうが、ひょっとしてもしかしたら決勝に進めるかもしれないと、淡い希望も芽生えてきました。この調子でがんばって決勝に進み、慶應相手に対抗戦の借りを返してほしいものですrock


ANAカードファミリーマイル

ANA_famliy ようやくANAも家族でマイルを合算できるようになりますねーcrying。これで、息子タイガのマイルも有効に使えるようになりますhappy01。子供料金は大人料金の半額なのに、積載マイルは100%なので、投資対効果が大きいんですよねconfident

ただ、JALが同様の仕組みを発表して、ずいぶんと日数が経っていますが、なんでこのタイミングなのかは、よくわかりませんthink。遅すぎるぞ。。snail


自分40年史 (就職活動)

高校2年生(1986年12月)から大学2年生(1991年2月)にかけて、世の中は好景気だったらしく、後にバブル景気と呼ばれた。でも、親からの仕送りで生活する学生にとっては、世の景気など無関係。それまでの人生の中で、最も貧乏な生活を送っていた。ただ、バイトをしていたクラスメイトの中には、時給1,000円以下はバイトじゃないと豪語する者もいたので、景気はよかったんだと思う。大学3年生になった頃には、マスコミで盛んにバブルが弾けたと報道されていたが、バブルっていったい何のことだと、クラスメイトとよく話したものだ。

2歳上の先輩くらいまでが、まさにバブル就職組で、就活成金だとか、学校推薦が内定のチケットとか、そんな夢みたいな話しか聞かされなかった。しかし、自分たちのときはそうじゃないというのは、就職活動を始める前から、薄々は感じていた。

表向きは就職協定が幅を利かせていたため、内定の解禁日は4年生の10月だったが、明治の場合は4年生になると同時に就職活動が開始された。真相は定かではないが、東大、早慶、MARCHの順に決まっていくので、東大は3年生の終わりには決まっていて、早慶はGW前には決まっているとか、そんな噂が絶えなかった。

明治の理系の場合、大手企業の面接を受けるには、学校推薦が必要であった。しかも、学校推薦は1名あたり1社しか割り当てられず、面接を受けるための権利に過ぎなかったため、内定の保証はなかった。定員を超えた企業に対しては、3年生までの成績順で割当が決まるため、大学側はなるべく多くの学生に学校推薦が行き渡るようにと、事前に2-3回のアンケートを取り、各自の成績で学校推薦が取れそうなところを選びなさいとも受け取れるような誘導をしていた。

成績が振るわない学生は、最初から学校推薦のレースには参戦せず、中小企業に絞って独自に就職活動をしていた。仮に学校推薦をもらえたとしても、面接に落ちればそれまで。その時点で、大手企業の就職は厳しいと言わざるを得なかった。そんな制約の多い就職活動であった。

4月から5月にかけて、就職ガイダンスと会社説明会が行なわれた。会社説明会では、各企業の採用担当がわざわざ大学に来てくれて、各社の紹介をしてくれた。そこでは会社見学の日程を教えられ、興味を持った会社を見学するという仕組みだった。

業種としては2つ考えていた。1つ目は、通信工学を専攻していたので通信業。2つ目は、金融業界が名を馳せたバブル景気へのアンチテーゼから、モノを作る仕事がしたいと思っていたので製造業。しかし、具体的にどういう仕事をするのかが思い描けず、会社選びも難航した。NTTやホンダを始め、いくつもの会社説明会に参加した後、松下通信工業(現パナソニックモバイルコミュニケーションズ)、パイオニア、ビクターを見学しに行ったが、どうも心に残らない。

そんな時、SEという仕事に関する就職ガイダンスのことを知り、軽い気持ちで参加した。今思えば、これが運命の出会いであった。SEとプログラマの違いの説明を受け、SEはシステムを作る仕事だと知る。それまでモノ作りにこだわっていたが、システムを作るのもモノ作りではないかと気付き、急にSEという職業に惹かれて行った。

そして、その数日後に日本IBMの会社説明会があったので、急遽、参加したのだが、それが衝撃的な内容であった。他社の会社説明会は、OBが1-3人程度でやってきて、会社の話を淡々とするだけだったが、正直、どの会社のOBもぱっとした人がいなかった。ところが、日本IBMからは10人近いOBがやってきて、1人が説明してる横から「ここはこういう風に説明した方がいいんじゃない?」と意見したり、その場でいきなり「営業/SE系と研究系は分けて説明した方がわかりやすいよね」とか「机は向き合わせた方がいいよね」とか、思い思いに提案し続けるのだ。初めて、この人たちはすごいと思えるOBに出会った瞬間である。

俄然、日本IBMという会社と、そこで働く人に興味を持ち、営業/SE系の拠点である箱崎事業所と(当時の)研究系の拠点である大和事業所の、両方の会社見学に参加した。憧れの先輩たちに囲まれて仕事をしたいという想いは高まる一方である。この会社しかないという感じになり、会社説明会の後で行なわれた懇親会の帰り、明治OBの人事担当者の方と電車が一緒になった際、自分の想いを話した。そのとき、「自分は専攻した通信工学以外にも、政治や経済にも興味があり、専門バカじゃないつもりだが、学校の成績だけで学校推薦の割当が決まるのは、本当の自分を見てもらえてなくて残念だ」と愚痴を言ってしまった。すると、「君は、仕事ができないのに、これは本当の自分じゃないと言い訳してるのと同じだし、それじゃ(面接で)落ちるよ」と言われ、目が覚める思いであった。本気でこれはまずいと思い、軌道修正する方法はないか、ヒントを聞き出し、それから面接に向け、必死に考えた。

面接日はどの大手企業よりも早く、学校推薦が決まるはるか前の、6月上旬であった。川崎事業所で行なわれた面接では、面接官の顔ぶれを見て驚いた。3名とも、会社見学でお会いしたことのある方だったのだ。

最初の質問は、何故この会社を志望したのか。「SEという仕事に興味を持ったのがきっかけですが、何故、SEになりたいのかから説明させてください。」と断ってから、自分の考えを話し始めた。モノ作りに対する考え、会社見学で出会った先輩の話、日本IBMに対して抱いた印象。そんな話を必死に、ひとりで20分間も話し続けた。一通りの説明を終えた後、面接官に「あまりにお話が上手で聞き入ってしまいました」と言われたのを真に受けたのは、若気の至りであった。

次の質問は、この会社を通じて実現したい夢は何か。これはまったく考えていなかったが、少し間を置いた後、「自分で作ったシステムを、自分の父親に見せたいです。これが、俺の作ったシステムだと、見せてやりたいです。」という言葉が自然と出た。

その後は、勤務地に対する希望や、たわいのない質疑応答が続き、面接は終わった。実に清々しい気分であった。これで落とされたら、自分を受け入れてくれる会社はこの世にないと思えるほど、自分のすべてを出せた面接だった。

結果は、合格であった。日本IBMから大学に対して、学校推薦を発行してほしいという依頼があり、その後行なわれた学校推薦の選考にも受かり、事実上の内定をもらえた。この時の喜びは、今でも忘れられない。憧れの先輩たちの仲間入りができるのが、本当に嬉しかった。

ただ、内定という言葉は一度も使われておらず、この先に面接は予定されていませんという情報しかなかったので、夏頃に不安のあまり、日本IBMに問合せをしたりした。これは夢なんじゃないかとか、大切な面接や試験があるのに、参加してないがために不合格になるんじゃないかとか、いろんなことを不安に思ったものだ。

内定の解禁日である10月1日が内定式であった。それまで面接1回だけだったので、その場で英語の試験を受けたが、内定結果に影響はなかった。

2月頃にもらった配属通知に書かれていた配属先は、開発製造本部 製造統轄本部 ナショナル・ランゲージ・サポート。何をする部署なんだか、さっぱりわからない。一般教養課程のクラスメイトにも日本IBMの内定者がいたが、そいつも開発製造本部 製造統轄本部までは同じ。2人で何するんだろうなと言いながら、入社式を迎えた。


大学ラグビー定期戦 第85回 早明戦

明治大学ラグビー部 今年の早明戦は、本当にいい試合でした。結果的に明治は早稲田に敗れたものの、「前へ」という自分たちの戦術は充分に通用するということを再確認でき、選手たちも自信を取り戻せたんじゃないでしょうか。対抗戦は5位に終わりましたが、大学選手権までにきちんと修正してくれば、結果を出せるようになると思います。僕はラグビーの専門家じゃないですが、そういう期待を持たせてくれる試合でした。

前半早々のモールで押し込んだトライは、自分が学生時代に何度も見てた、これぞ明治という攻め方で、感極まって涙が出てしまいました。強い頃の明治の姿と重なり、行けるんじゃないかという手応えを感じた瞬間でもあります。前半30分位から防戦一方になりましたが、トライを奪われなかったのは立派だと思います。後半は完全に早稲田にボールを支配されたものの、課題だったラインアウトも確実に取れており、まさに吉田監督が選手として活躍していた頃の、あの強い明治の試合を見ているときのような安心感がありました。

吉田監督は僕が2年生のときのキャプテンですが、学生時代の印象は今でも強烈に残っています。大学日本一を奪還できるまでには、まだ何年かかかるでしょうが、今後の成長には大いに期待しています。


自分40年史 (大学)

20歳 - バイト仲間とカラオケ屋で 大学入学と同時に上京し、東京での独り暮らしが始まった。以来、ずっと都民である。早いもので、人生の半分以上を都民として過ごしたことになる。

やはり言葉では苦労した。地方出身者は誰もが同じだと思うが、日常生活で自然に東京弁を話せるようになるまで、少し時間がかかった。ただ、高校時代に放送部にいたため、NHK標準語のアクセントは身近なものであり、反射的に出てしまう言葉以外は東京弁で話せたので、クラスメイトは東京出身だと勘違いする人が多かった。入学前は全国から学生が集まっているだろうと思っていたが、実際には7割が首都圏の出身者で、その点は少し誤算だった。

また、童顔だったせいか、よく現役生と間違われた。浪人と現役は半々くらいだったと思う。そして、何故かテニスしてるでしょとよく言われた。ちなみに、一度も経験はないのだが、そういう雰囲気があったらしい。

明治の新入生は、本当に挫折感や劣等感で満ち溢れていた。浪人か現役かを問わず、一般入試での入学者は、早稲田を志望したのに明治にしか合格できなかった連中ばかりだった。もちろん、自分もそのひとりだ。附属校からの内部進学者と推薦入学で入った競争を知らない現役生以外は、全員が競争に敗れた連中だった。本気で仮面浪人をしようかと企む者さえいた。

しかし、最初の夏休みが始まる前には、みんな愛校心が芽生え、すっかり明治に溶け込んでいた。飲み会でもカラオケでも、最後に必ず校歌を歌い、ひどいときは校歌を歌いながら夜道を練り歩くことすらあった。でも、愛校心の中身は、ここがいいという前向きな気持ちではなく、やっぱり自分たちはこの程度だから、そんな自分たちには明治くらいでちょうどいいんだという、どこか諦めた気持ちだった。

実際、どこに行っても「明治(にいる自分たち)は馬鹿だから」と自虐的に話すことが多かった。ラグビーの戦術についても「横の早稲田」と「縦の明治」はよく比較されるが、「早稲田は頭がいいからボールを横に振れるんだけど、明治は馬鹿だからボール持ったら前に進むことしかできないんだよな」なんて話をよくしてた。そんなこともあり、ラグビー早明戦の勝敗の行方は一番の関心事だった。馬鹿が賢者に勝つ、唯一の場だったのだ。当時は明治の黄金期だったので、早稲田に負けた記憶はほとんどないが、この10年の低迷を見てると、ついに勝てるものがなくなったのかという寂しい気持ちになる。

理工学部の一般教養課程のクラスは第二外国語を基準に分けられており、クラスメイトは8学科(電気工学科、電子通信工学科、機械工学科、建築工学科、工業化学科、情報科学科、数学科、物理学科)から集まっていたため、幅広い友人と知り合いになれたのはよかった。ほとんど男子校のノリだったが、とにかく面白いやつばっかりで、学校に行くのは楽しかった。卒業後はなかなか会う機会がないが、未だに年賀状のやり取りは続いている。彼らも一生の宝物である。

そもそも、通信工学を学びたくて入学したのに、一般教養課程は直接的に関係ない授業が多く、もどかしさがあったが、法学や政治学のような社会科学系の授業は楽しかった。一方、語学系は非常に苦労した。

3年生から専門課程になったが、なんとか第一希望の北見ゼミ(デジタル通信工学)に入ることができた。定員を超えた場合は、2年生までの成績(優38, 良36, 可15)で当落が決まってしまうのだが、真ん中くらいに位置していたので、やる気はあったが、当落線上で危なかった。実は、北見教授はこの年(1991年)にNTTから教授に転身された方で、新設されたばかりのゼミだった。新しい組織が好きな自分にもぴったりであった。

3年生のゼミは授業と発表が中心であったが、本当に楽しかった。最初のゼミで与えられた課題に対しては、固定電話網について図書館で丹念に調べ、ひとりだけプレゼンをした。逆に言うと、自分以外に明確な理由があってこのゼミを選んだ人はいなかったので、その後も他のメンバーとはゼミに対する温度差がかなりあった。

4年生になると、卒業に必要な単位はほとんど取得済みだったので、ほぼすべてがゼミでの卒論研究であった。簡単に言うと、ブロードバンド時代を見据えた新たな伝送方式の研究を行なっていた。当時(1992年)はインターネットの存在も知らず、ISDNすら珍しい時代である。ゼミの一期生だったため、ゼミ室にはMacが3台とホワイトボードがあるだけ。これを12名で使うので、アイディアが浮かんですぐに検証したくても、誰かがMacを使っていたらおしまい。秋には両親に頼み込んでMacを買ってもらい、計算に使うMathematicaは教授からこっそりと借り、自宅で24時間態勢で研究に打ち込めるようにした。実際、夜中の3時に急にひらめいて、Macで計算を始めることもあった。

卒論は同じチームの4名で分担して執筆することになっていたが、自分が中心になって研究を進めたという自負もあり、提出用の論文とは別に、自分ですべての範囲を執筆し、今でも大切に保管している。研究自体は、志半ばというところで時間切れになってしまったため、研究を続けたいという想いはあったが、大学院への進学はまったく考えていなかった。1日も早く社会人になり、自分の力を試したいという想いでいっぱいだった。