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リゾナーレ 2010冬 (2日目)

朝は何故か8時過ぎに目覚めてしまいました。朝からのんびりと風呂につかりますspa。10時を過ぎても妻アスカも息子タイガも一向に起きる気配なし。まあ、のんびりすると決めてたので、朝食券は昼食で使うことにして、そのまま寝かせておきます。お腹が空いたのでプリウスで近所のコンビニ買い出しに出かけ、ひとりで軽く朝食。結局、アスカは11時過ぎまで、タイガは11時40分まで寝てましたsleepy

チェックアウトし、YY grillで昼食。朝食はすべてビュッフェなのですが、昼食はプレート付きだったので、サーモンのソテーを選びましたrestaurant

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昼食後は、珍しくタイガがスケートをしようと言い出したので、一緒に挑戦。最初は立ってるのがやっとという感じでしたが、10分くらいでどうにか滑れるようになりました。

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でも、30分もしないうちに休憩sweat01。まだコツをつかんでいないので、無駄に力んでしまい、すぐに疲れてしまいます。そのままお隣のブックス&カフェに直行し、本格的に休憩ですcoldsweats01

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タイガがお腹が空いたとうるさいので、前回行って気に入ったスコーンの美味しい紅茶屋さんに移動。

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家族でお喋りしているうちに、あっという間に17時です。スケート以外は「食う」「寝る」「喋る」だけという、実にまったりとしたリゾナーレでしたcoldsweats01

自宅に着いたのは19時半でしたが、東京は実に暖かいshine。でも、また行きたいですねwink


リゾナーレ 2010冬 (1日目)

プリウス買ったから、早速、お出かけhappy01。出かける場所と言えば、そりゃリゾナーレでしょconfident。今回で9回目の訪問ですscissors

息子タイガの塾が遅くまであるので、今日は移動だけで終わってしまいました。リゾナーレに着いたのは23時半。外気温はなんと氷点下2度ですwobbly。家族全員、のんびりすると決め込んでいたので、1時間もしないうちに、即寝ですsleepy

ちなみに、今回は2007年8月以来のレジデンスルーム3F メゾネットタイプです。前回はタイガが3年生のときでしたが、すっかり気に入ってしまって、リゾナーレを予約するたびに「階段のある部屋?」と聞かれ続けてきましたcoldsweats01。吹き抜けなので天井が高くて広々としてるし、部屋の作りもゆったりしているので、僕もお気に入りですが、お値段も若干高いし、予約もなかなか取れないんですよねbearing。でも、やっぱりいいお部屋でしたhappy01

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プリウス納車!

長かったぁthink。昨年6月下旬に契約してから、待つこと7ヶ月半sweat01。ようやくプリウスが納車されましたーcrying

[我が家のプリウスの写真]

10時半にディーラーに伺うことになっていたのですが、朝から小雪舞う生憎の天気ということもあり、営業さんが気を利かせてくれて、自宅まで車で迎えにきてくださいました。車の説明と書類のやり取りをすませ、自宅に戻ってきたのが11時半過ぎ。早速、自動車保険の車両入れ替え手続きとETCマイレージの登録変更を行ないます。

昼食を挟んでオーディオのセッティングとカーナビの取り付けをしていたら、妻アスカがやってきて「あれっ、この色だっけ」という驚愕の一言sweat02。黒がいいと言ったら、Poloと同じ紺じゃなきゃ嫌だと譲らなかったのは、あなたではないかgawk。でも、紺もきれいな色で気に入ってますけどねgood

その後、行きつけのENEOSで満タン給油しましたが、レギュラーなのが感動happy02。この8年間、中古輸入車を乗り継いできたので、仕方なくハイオクだったのですが、このGSのレギュラーはバイオガソリンということもあり、何だか嬉しいですhappy01

試乗も兼ね、近くのヤマダ電機までひとっ走り。まだ運転がぎこちないところもありますが、特に違和感もなく、身体に馴染んでいます。短い試乗ではわからなかったことも徐々に感じられるようになってきたので、いずれレポートしたいと思います。

明日はお台場までお出かけの予定です。首都高速の走りっぷりも楽しみですconfident


自分40年史 (Webとの出会い)

27歳 - 東京湾フェリーの船上にて 話は前後するが、新人研修を終えた直後の1994年2月に、会社人生における転機とも言える出来事が起きていた。Webとの出会いである。

SEスクールを終え、その体験記をまとめている頃のことである。同じ事業所に勤める日系ブラジル人の同期から、WWW(World Wide Web)を見せてあげると言われ、彼の部署に見に行った。当時のブラウザはUNIXで動くMosaicのベータ版しかなく、日本語表示もできなかった時代だ。Webの存在は雑誌の記事で何となく知っていたが、本物を見たのは初めてであった。クリックするだけで、世界中に点在するサーバを自由に行き来し、さまざまな情報を見ることができるのが、とにかく衝撃的であった。

自分の席に戻り、すぐさま所属長に対して、「CD-ROMマニュアルではなく、近い将来、必ずWebでマニュアルを読む時代がくる」と一方的に興奮気味の長文メールを送ったが、届いた返信には「確かにそうだろうけど、5年か10年くらい先の話だろうね」と書かれていた。

しかし、時代の流れは予想よりも早かった。1994年秋に、当時、会社のWebサイトを持っていなかった日本IBMが、ある社員の報告をきっかけに、会社の公式サイトを立ち上げる社長直轄プロジェクトを発足させ、全社から各コンテンツを募ったのだ。ローカライズ部門であるNLSにも声がかかり、自分に白羽の矢が刺さった。所属長が半年前に送ったメールを覚えていてくれたのだ。

NLSからは、試験的に日本語化したマニュアルを2冊HTML化し、公式サイトに掲載した。オーサリングツールもなければ、HTMLの書き方の情報もほとんどない時代である。Webサーバの構築も英語の情報しかなく、ブラウザも細工を施さないと日本語を表示できないような時代だ。まさに時代の最先端だった。

その後も、月に2冊ずつ掲載マニュアルを増やすことになり、プロジェクト終了後も継続してWebの仕事にかかわるようになった。会社全体としても、情報を掲載したいと手を挙げる部署が増えてきたものの、社外も含めコンテンツ制作ができる人材がほとんどいない状態で、Webサーバを管理していた部署が「NLSにコンテンツを作れる人がいる」と自分のことを紹介してくれるようになった。

こうして、他部門からのコンテンツ制作を請け負うようになり、結局、最初の仕事以外、本業であるローカライズの仕事にかかわることはなかった。入社4年目までNLSにいたが、専任でWebコンテンツ制作を行なえたのは、非常に恵まれた環境だったとしか言いようがない。その間は、社内のさまざまな部署と関わりを持つことができ、非常によい勉強になった。

特に某国立大学と共同で行なった障害者向けのさまざまな機器を紹介するカタログのWeb化のプロジェクトでは、社外の人ともつながりを持てたし、バリアフリーという考え方に出会うこともできた。そして、ThinkPadのデザインを担当したデザインセンターの人たちとも一緒に仕事をすることができ、プロのデザイナーの仕事ぶりを間近に見れたのも、非常に刺激になった。

また、ある製品のページを担当したときは、自分なりの表現を自由に試すことができ、それを受け入れてもらえたのが非常に心地よかった。今のようにPhotoshopがメジャーではない頃に、独学で使い方を学び、当時のWebコンテンツの表現力の向上と歩調を合わせるように、自分の表現力が向上していった。まさに、天職に巡り会えたと思えるほど、Webの仕事にのめり込んでいった。

その一方で、心の葛藤もあった。同期の連中はSEとして確実に成長しており、早い人は入社3年目で小さな案件のPMをこなすほどであった。Webの仕事は楽しいとは言え、自分との差が開いていく一方のような気がした。それに、プロのデザイナーでもない自分が、ずっとこの道で飯を食っていけるのだろうか。お客様に接する仕事をせず、このまま間接部門に居続けてもいいのだろうか。仮にWebの仕事を続けるのであれば、いつまでもローカライズ部門にはいられないはずだが、他に居場所はあるのだろうか。そんなことを常に考えていた。

入社4年目に、所属長とのインタビューでキャリアパスに関して思っていることを正直に話したが、やはり若いうちにお客様に接する仕事をしておいた方がいいだろうと言われた。そして、所属長があるSE部門の社内公募を見つけてくれ、そこに応募することになった。面接の結果、異動が決まり、入社5年目を迎えた1997年4月、同期の後を追いかけるように、SEとしてのキャリアを歩み始めた。


自分40年史 (最初の仕事)

24歳 - 蓼科にて 新人研修の期間も、研修と研修の合間は配属先に戻り、OJTと称して雑用をこなすことはあった。しかし、自らが担当する業務として仕事を与えられたのは、11ヶ月に及ぶ長い新人研修を終えた1994年3月であった。

配属先であるナショナル・ランゲージ・サポート(NLS)とは、ローカライズ部門のことだった。IBMで開発する製品は、開発元がどこの国であろうと、必ず英語で開発をし、それを各国のTC(トランスレーション・センター)が母国語に翻訳するのが通例であった。つまり、日本のTCがNLSだったのだ。

当時のIBMのマニュアルは、すべてメインフレームで処理する仕組みになっていた。XMLやSGMLの先祖であるBookmasterという言語で書かれており、同じソースファイルから紙のマニュアル(ハードコピー)とCD-ROMマニュアル(ソフトコピー)を生成できるようになっていた。CD-ROMがほとんど普及していない頃であり、今思えば先進的とも言えるが、Macで動くDTPが台頭し始めた頃でもあり、大学のゼミでMacを使っていた自分には、メインフレームを使っている時点でえらく古臭く感じた。

そんな中、唯一、AIX(IBMのUNIX)だけはAIXで動くDTPソフト(Interleaf)で処理する仕組みが試験的に始められていた。ある女性の先輩が担当者として孤軍奮闘していたところに、自分も参加することになった。何彼に付けMacの先進性を声高々にアピールし、暗にIBMの旧態依然とした仕組みを批判する生意気な新人に対する、所属長の粋な計らいでもあった。

DTPソフトの一般的な使い方は知識としては備えていたので、Interleafの使い方は比較的すんなりと覚えられた。しかし、Interleafで作られたマニュアルの中身を英語から日本語に置き換えるプロセスを考えるのは、なかなかの難題であった。当時の翻訳ツールはInterleafには未対応で、Interleafのファイルの中には表面的には見えないハイパーリンクの情報(CD-ROMマニュアルにした際のリンク元とリンク先の情報)も含まれていたので、それらを壊さずに中身の文章だけを英語から日本語に置き換える必要がある。

技術系の部署の先輩方は、ソースファイルの中身を解析して、ハイパーリンクの情報は残したまま、文章だけを英語から日本語に置き換える方法を推していた。しかし、自分はアプリケーションが内部的に持っている情報を勝手に書き換えるべきではないという信念の下、文章だけをテキストで抽出して翻訳し、Interleafの通常操作でハイパーリンクの情報を埋め込んで再現する方法を提案した。今の自分なら選択しないであろう、素人発想の案である。

まずはリーダーである女性の先輩に話し、所属長にプレゼンしたところ、あっさりと「いいんじゃない」という返事をもらえた。「えっ、これでいいんですか?」と尋ねたら、「君たちがいいと思う方法ならいいんだ」と言われたのを、今でもよく覚えている。それは自分の信じた方法を、責任を持って進めなさいということでもあった。この案を採用することに対し、技術系の先輩方からいろいろと言われたようだが、新人だが彼の考えには一理あると、所属長が守ってくれた。これに限らず、新人の突拍子もない発想に蓋をすることもなく、自由に泳がせてくれた当時の所属長には、今でも感謝している。

日本語化のプロセスも決まり、いよいよプロジェクトが開始という頃になって、リーダーである女性の先輩が妊娠し、つわりがひどくて出社できなくなってしまった。仕事を始めて4ヶ月目の新人が、いきなり、実作業を担当する派遣社員2名と外注先1社を引っ張る立場になってしまった。案件の中身を把握していたのは、先輩と自分の2人だけだったので、質問する相手もいない状態である。

とにかく、無我夢中で対応したのは覚えている。翻訳系のところは他の女性の先輩が担当してくださったが、あとはどうやって対応したのか、全く覚えていない。でも、何度か延期になったこともあり、数ヶ月後には世の中に製品として出荷されていた。今思えば、影でいろんな人々に支えられた結果だと思う。

同期の連中は、現場のSEとしてお客様のシステム構築のプロジェクトに携わる中、ひとり全く異なる状況に置かれた訳だが、大抵のことには動じない度胸だけはついた気がした。