アラフィフの転職活動

訳あって、あと数ヶ月で50歳という時点で転職活動を余儀なくされ、50歳を迎えて2ヶ月目に、ようやく1社だけ内定をもらうことができました。

備忘録も兼ね、簡単に振り返っておきます。

背景

そもそものきっかけですが、要するに転職に失敗してしまったためです。

創業間もない零細企業に後輩と2人で乗り込んだものの、入社早々に給与遅配が起き、4ヶ月目には資金繰りの悪化で給与45%カットを呑まざるを得ない状況に。

後輩が先に辞めると言い出し、その後も業績回復が見込めない状況が続き、ついには中国人オーナーから遠回しに退職を促されたこともあり、もうこれは自分の力ではどうにもならないと覚悟し、退職を決意しました。

活動期間

ざっくり、5ヶ月弱かかりました。50代だと平均6ヶ月らしいので、幸運だったと思います。

  • エージェントに登録しようと決意し、活動を開始したのが2019年10月上旬。
  • 直後に体調悪化で1ヶ月半の中断を挟み、2019年12月上旬から応募開始。
  • 会社都合で2020年1月末日付にて退職。
  • 内定をもらえたのが2020年2月下旬。

活動手順

ざっくり、こんな順番です。

  1. エージェントに登録するための履歴と職務経歴の作成
  2. エージェントに登録
  3. エージェントの担当者と面談
  4. 職務経歴の再作成
  5. 応募 (181社)
  6. 一次面接 (10社)
  7. 二次面接 (5社)
  8. 内定 (1社)

とにかく、応募できる状態にするまでで一苦労でした。

1.だけで軽く2-3週間はかかりましたし、4.も1-2週間はかかりました。仕事をしながらだと、どうしても週末しかまとまった時間を取れないので仕方ないとは言え、想像以上に時間がかかりました。

私の場合は、スペシャリストというよりゼネラリストに近い経歴になったせいもあり、自分の強みが自分でもわからないというか、自分の経歴に自信を持てず、職務経歴をまとめるのに非常に苦労しました。

そして、本当にしんどいのは、応募を始めてからです。まぁ、とにかく書類選考で落とされ、面接をしても最終的には落とされ、常に自分の何かを否定され続けてばかりです。いやぁ、きつかったです。

エージェントからは「ミドル層は書類選考の通過率が6%-8%で、誰しも100社は応募する」と聞かされていたので、当初は書類選考で落とされてもそんなものだと受け流せました。

でも、最終面接で落とされる状況が続き、宣言した退職日を過ぎて失業者になったこともあり、自分は社会から必要とされてないのかなと思うこともしばしばありました。

転職活動を終えて

あくまでも結果論ですが、希望する社内SEとして、かつ、夢だと諦めていた通信業界に戻れることになったので、この会社に出会うために苦労したんだと思うようにしています。

もちろん、いい話ばかりではなく、給与は足元を見られた感があるし、入社して初めて見える負の面は当然あると思います。

でも、181社の中で、唯一、自分のことを評価してくれた会社に出会えたので、これは縁だと思って内定を謹んでお受けしました。

いろんな会社に否定され続けた後に、内定をくれた会社からは、こんなありがたいコメントをいただきました。

システム経験およびベーススキルの根幹がしっかりとあり、
エンジニアとしてのキャリアステップを着実に踏んできている点と、
誠実で実直なお人柄に面接対応者一同非常に好感を持ち、
ぜひ弊社に参画していただきたいと感じました。

しんどい転職活動でしたが、このコメントを読み、本当に心が救われました。


自分40年史 (ようやくわかったこと)

2010年9月下旬から、統計的機械翻訳というものを担当している。Google翻訳で採用され、一躍脚光を浴び始めた、比較的新しい技術である。この仕事にかかわり始めて、自分が最も輝いていた頃の感覚と重なることが多くなった。

これまでは、ずっと、

  • 個人の生活を豊かにする事業にかかわりたい。
  • 通信業界かWeb案件のどちらかにつながっていたい。
  • いずれは経営者になるべきで、そこにつながる道を歩みたい。

と考えていたので、統計的機械翻訳は何も当てはまるものがない。むしろ、ローカライズの世界にどっぷりはまるようで、ちょっと避けたいとさえ思っていた。にもかかわらず、自分が最も輝いていた頃の感覚と重なることが多いのだ。

そして、つい先日、自分はどういう状態に満足するかに気付いた。それは、

  • 前例の少ない、最先端の分野であること。

という、極めてシンプルなものだった。そして、このシンプルな法則が、自分が最も輝いていた頃に、すべて一致するのだった。

  • Webとの出会いとWebコンテンツ制作
    • ブラウザの日本語化も不完全で、WebサーバもUnixのみ。
    • HTMLの情報もほぼ皆無で、あったとしても英語のみ。
    • コンテンツ制作ができる人は少なく、Photoshopも独学。
  • 即時電子決済を伴うWebサイトの構築
    • 当時は、日本に即時電子決済のWebサイトの事例なし。
    • SETというIBMが中心になって提唱したプロトコルも日本での採用はほぼ皆無。
    • 使用したIBMの製品も日本語版がなく英語版のみ。
  • ケーブルインターネット事業を行なうCATV会社でのWebマスター
    • 当時は日本で唯一のブロードバンドがケーブルインターネット。(ADSLの上陸前。)
    • MSOという日本のCATVでは珍しかった経営形態。
    • 企業におけるWebサイトの重要性が叫ばれ始めた時代。

そして、あの頃と同じように、統計的機械翻訳にも、このシンプルな法則が当てはまる。

  • 統計的機械翻訳
    • 欧米言語間では実用化が進んでいるが、日本語は大学での研究が中心で、民間企業における実用はこれから。
    • 日本語の情報は少なく、欧米言語を対象にした英語での情報がほとんど。
    • 欧米言語にはない、日本語特有の対応が必要で、工夫の余地が大きい。

今の会社では、長らく社内ITインフラの改善に携わってきたが、経営陣にはコア事業じゃないんだから人もカネもかけなければかけないほど望ましいということを言われ続け、そこに対する不満も大きかった。ITを活用すれば、仕事のやり方を変えることもできるというのは、10年以上も前から言われていることなのに、経営陣はこの規模の会社には必要ないという認識だった。

しかし、統計的機械翻訳は、会社の戦略上、非常に重要な位置付けだし、ITを活用しなければ実現できないコア事業でもある。(実際には、ITは必要な要素の1つに過ぎず、統計的機械翻訳の理論に加え、統計学や言語学など、幅広いスキルが必要とされる。)それに加えて、自分で見出したシンプルな法則も当てはまる。正直、同業他社の統計的機械翻訳の状況が完全に見えているわけではないが、伝え聞いた範囲では、先頭集団を走っているという実感がある。今なら、このネタで修士論文が書けるというくらいの自信はある。それくらいの手応えを感じている。

この10年間は、会社人生においては、低迷期そのものだった。そこで一緒に仕事をしてきた方には申し訳ないが、自分にとってはそうだった。でも、「前例のない、最先端なことにかかわれること。その状態に自分は満足する。」という、シンプルな法則に気付くために必要な時間だったんだと思う。

同時に、自分の思い込みから解放されたことにより、可能性がすごく広がった気がする。このシンプルな法則に当てはまるものは、数多く存在するからである。統計的機械翻訳も、あと2-3年もすれば、どの会社も当たり前のように使う、成熟した技術になると思う。でも、このシンプルな法則のおかげで、次の興味の対象はいくらでもあるはずだ。

今日で41歳になった。もがき苦しんだ30代を経て、40歳の終わりに、ようやく長い長い暗闇から脱することができた。この先もいろんなことがあるだろうが、仕事に関しては、自分で見出したシンプルな法則に身を委ねようと思う。この先、自分がどう成長していくのか、楽しみだと思えるようになった。


自分40年史 (光の正体)

メールの送り主は、日本IBMの最初の配属先の元所属長(課長相当)だった。あるお客様の担当者の後任を捜していて、うちの会社に転職は考えられないかという内容だ。元所属長は既に日本IBMを退職しており、ローカライズを事業とする関連会社で取締役をしていた。社長も元上司(部長相当)で、何名か知っている先輩もいた。正直、ローカライズには全く興味がなかったが、当時勤めていたベンチャー企業は会社そのものがいつまで続くかわからないし、自分のキャリアにどうつながるかも見えてなかったこともあり、直接お会いして話を伺うことにした。

おふたりとお会いするのは、日本IBMで最初に異動して以来だったので、約6年ぶりであった。会社の状況や方針を伺うことはできたが、具体的に自分がどういう仕事をするのかは、実は不明確なままであった。Web関連の案件にかかわれそうだというところまでわかったのだが、ローカライズ絡みの案件なので、いわゆるWebマスターとも違う。

しかし、何年もお会いしていなくて、今の自分の仕事ぶりを知っているわけでもないのに、かつての上司が自分のことを思い出し、声をかけてくれたのである。自分のことを必要としてくれる場所があるのなら、興味があるとかないとか関係ないのではないか。そう思うと、断る理由はなかった。年収が大幅にダウンするのもわかっていたが、交渉もせず、逆に自分の値段を付けてくれとお願いし、提示額をそのまま受け入れた。

2003年6月後半から外注扱いで実務に入り、7月に正式に入社をした。これが現在も勤めている会社である。

顔見知りの先輩が何名かいたということもあり、溶け込むのに時間はかからなかった。しかし、自分の担当業務が確定していないまま入社したということは、すぐにわかった。あるお客様の担当者の後任であることは確かだったが、その業務だけですべてが埋まるわけではなく、極論すると自分がいなくても業務自体は回るようだった。最初の配属先の所属長も、自分がどういう経緯で入社してきたかをあまり聞かされていなかったようで、何をするかが決まってない人をいきなり送り込まれ、しかも、高待遇だと映る面があったらしく、扱いに困っていたようだった。

Web案件もルーチンワークしかないのが実態で、自分ができることをしていくうちに、社内SEとして社内のITインフラを整備する仕事がメインになっていった。直前に勤めていたベンチャー企業と比べれば、いろんな体制や仕組みが整っていたとはいえ、ITインフラを担当している部門は、専任で面倒を見るまとめ役がおらず、20代半ばのふたりの若者が無秩序に仕事をこなしていた。コストダウンをしながらITインフラを整え、同時に秩序をもたらすのが仕事になっていき、後追いでITインフラを担当する部門に異動することになった。

一方、入社から半年も経てば、業界の構図や会社の実態も見えてきた。労働集約型の下請け産業そのものだと気付いたのだ。無の状態から何かを創造するのではなく、お客様が提供してくれた文章を、別の言語に置き換えていく。もちろん、その課程でさまざまな工夫やノウハウが必要だとはいえ、そこにあまり付加価値はなく、単純な価格競争に陥りやすい、典型的な下請け産業であった。付加価値が少ないわけだから、社員の給料は安く、会社が利益を出したとしても、それは安い人件費という犠牲の上で成り立つものだった。

Webの仕事とは程遠い、社内SEの仕事。そして、がんばっても給料が上がらない、労働集約型の下請け産業。一筋の光に見えた正体は、こういうことだった。自分なりの成長を感じられることはあっても、必ずしもそれが世間から必要とされているものというわけではなく、同期との差は開く一方。

そんなことを感じながら、あるお客様の案件にかかわったとき、心が壊れてしまった。会社で急に涙が溢れ出して止まらなくなり、自分でコントロールができない状態になってしまった。取締役である上司の勧めで、日本IBMの産業医に診てもらい、更にその先生に紹介された別の病院でも診てもらった結果、鬱と診断された。その直接的な原因となった案件から外してもらい、本来は担当外の先輩に引取ってもらった。その先輩には、仕事はきっちりできているし、周りと比べて劣っているとは思えないと言っていただいたが、自分に自信が持てない状態はずっと続いた。

その後は異動を伴いながら、社内ITインフラの責任者を兼務したまま、さまざまな業務にかかわった。管理職ではないのに、一緒に働く社員の採用や勤怠管理をしたり、ある決まった範囲での少額決裁権を与えられたので、よく管理職と勘違いされた。入社直後から従業員代表をしていることもあり、就業規則が改訂される度に改訂内容の説明を受け、労働基準法を意識する機会も多くなった。社長室の配属だったときは、人材派遣業に引っ張り出されたり、機械翻訳の実験を担当したり、時に社長の愚痴聞き役だったり、何をやっているのかよくわからない状態だった。

もちろん、どんな業務を担当することになっても、自分なりの目標を定め、少しでもモチベーションが持続するように努めたが、自分に自信を持てないまま、いたずらに年齢を重ねていった。初めての鬱を経験した後も、何度も鬱状態を経験した。土日もやる気が起こらず、日曜日の夜になってようやく何かをしようかという気になったり、ひどいときは金曜日の夜からまた月曜日がやってくるという恐怖に襲われ、土日が一番精神的に苦しかったこともあった。ほんの数ヶ月前まで、こんなことは日常茶飯事だった。会社では悟られないように笑顔を絶やさないようにしていた分、家では沈み込むことが多く、家族にはずいぶんと迷惑をかけたと思う。

こんな状態が長く続いたので、昔からの友達に会うことは避け続けた。ここ1-2年は、ようやく会ってみようと思えるようになったが、つい最近まで「今、(仕事は)何やってるの?」と聞かれるのが、最も辛かった。この質問をされる度、自信のない自分を再認識し、深く落ち込んだ。

しかし、2-3ヶ月前から、急に状況が変わった。


自分40年史 (見えない光)

次の会社が決まらないまま、2001年2月を迎えた。ひょんなことから、前月にタイタス時代の元上司が勤めるベンチャーキャピタルにお邪魔し、ネットワークの調査のお手伝いしたのがきっかけで、2月だけコンサルタント契約を結び、週に2-3日だけ出社してITインフラの改善を請け負った。空いてる日は、人生の休暇のつもりで、毎週のように、今はなきSSAWSに行っては、スキーを楽しんだ。

日本IBMとは、2月に異例とも言える4回目の面接を行なうことになった。履歴書に書いた「年収は現状維持を希望」というのが人事で引っかかっていた上、タイタスで過ごした1年強は評価に値しないし、IBMでこの先ずっと働きたいという意思が信じられないと言われた。年収については、絶対死守というわけではなかったので、いくら出してくれるのかと聞いたのだが、具体的な金額の提示はなく、IBMと交渉すること自体が生意気だという風に取られてしまった。タイタスに転職するとき、勝手な思い込みで年収は下がるものと決めつけて希望額を提示してしまった反省を活かし、現状維持を希望と書いたのが仇になってしまった。希望年収については、日本IBMを紹介してくれた元上司からも「福利厚生とか他の条件も考えろ」と忠告をいただいたのだが、それをうまく活かせなかった。

そして、2月中旬、日本IBMから不採用通知が届いた。自分は無職なんだという現実を突き付けられた瞬間である。一方、古巣である日本IBMとの面接を重ねる度、自分の経歴ではもう大企業には戻れないなと感じ始めていた。学生時代から、いつかは起業したいと漠然と思っていたこともあり、個人事業主としての道を歩み始め、3月以降もベンチャーキャピタルで社内SEとしてお世話になることになった。週に3日では生活にならないので、ベンチャーキャピタルの出資先を紹介してもらい、5月からは2社を掛け持ちし始めた。

出資する側と出資される側の両方の立場を同時に見ることができ、非常にいい経験になった。外資系のベンチャーキャピタルだったので、10名程度の日本オフィスの半数は外国人で、日常的に英会話をする機会があったのも、いい勉強になった。エンジニアの視点で会社を評価する機会をもらったり、いいビジネスはないかと日常的に考えたりしたのも、いい刺激になった。

出資先の会社でも、市場が必要としていると思われるサービスや商品を自分たちで開発し、その善し悪しをお客様に問うという、商売の原点のようなものを見ることができた。特に興味ある業種ではなかったが、社長の商売の匂いを嗅ぎ取る嗅覚の良さと営業手法に関しては、天才的なものを感じた。この社長が実践するセミナー営業手法は、今でも非常に参考になり、つい先日も著書を拝読したばかりである。

もちろん、いいことばかりではなかった。個人事業主というと響きがいいかもしれないが、いつでもクビ切りの対象になる弱い立場だったし、仕事を進める上で何の決定権もなく、実に中途半端な存在だった。実際、ベンチャーキャピタルの日本法人のトップが交代し、自分を引っ張ってくれたタイタスの元上司が辞めた後は、後ろ盾となる人もいなくなり、結局1年でクビになった。

その後、ベンチャーキャピタルの出資先の会社にお願いし、週5日の勤務にしてもらったが、会社は創業以来の赤字続き。社長は営業としては天才肌だが、失礼ながら社長業はあまり上手とは言えず、組織としてあまりに未熟だし、いつ倒産してもおかしくない状態で、社内の雰囲気も次第に悪くなっていった。

自分自身の仕事もWebマスターの仕事には程遠く、嫌で辞めたSEの仕事で食いつなぐ毎日。通信業界との接点は、何もない。希望の通信業界以外でも、少しでも興味を持った会社なら応募はしてみたが、書類選考の段階で落とされ続けた。何をしても進みたい方向に近付かず、むしろ離れていってる気すらした。まさに、袋小路に入り込んだ状態である。この頃から友人に会うのが嫌になり、周りの人に「今、(仕事は)何してるの?」と聞かれるのが苦痛でたまらなくなった。

そんなある日、1通のメールが届く。タイタスを辞めてから2年余りが経った、2003年4月の出来事だ。このメールが、現在勤務している会社へとつながるのである。


自分40年史 (最も輝いた瞬間)

1999年9月1日、通い慣れた箱崎ではなく、表参道にいた。転職先はタイタス・コミュニケーションズという外資系のCATV会社で、首都圏と札幌で6局を運営する日本では新しいタイプのCATV会社であった。当時のCATV事業は法規制で1地域1事業者に限定されており、地域密着型の小資本の会社が乱立していたため、日本では複数の局を統括して運営する会社が数社しかなく、タイタスは創立5年目にして既に業界2位の規模を誇っていた。

また、サービスも従来の多チャンネルTV放送だけではなく、電話とインターネットという通信サービスも提供する最先端の会社であった。当時はまだISDN全盛期であり、ADSLは日本に上陸前だった。学生時代に研究していたブロードバンドがいよいよ一般家庭に普及し始める、その瞬間を通信業界で立ち会えたのは、とても幸せなことだった。

タイタスの社員数は約500名で、社員数が約20,000名もいた日本IBMに比べれば、比較にならないほど小さな会社だった。初出社の日、社員証の写真を撮るために近所の写真屋に連れられたときには、あぁ小さな会社に入ったんだなと、軽いカルチャーショックを受けたのを今でも鮮明に覚えている。何しろ、日本IBMなら主な事業所に数千名を収容し、社員証の撮影設備やカフェテリアがあるのはもちろん、内科医も常駐していたほどだ。

しかし、タイタスの業績は右肩上がりで成長し続けており、まだ赤字ではあったものの、局によっては単月度黒字が見えてきて、とても勢いがあった。同時に社員数も、ものすごい勢いで増えていた。9月入社も約20名ほどいたが、その後も毎月、中途採用で入社する社員が続いた。

会社の目標も極めてシンプルで、まずは加入者を増やすこと。そして、1加入者あたりの契約サービスを1サービスより2サービス、2サービスより3サービスと増やすこと。そのシンプルな目標を達成するため、全社員が同じ方向を向いて突き進んでいた。

配属されたのはインターネット事業部。TV、電話、インターネットの3サービスのうち、インターネット接続サービスの内容を企画する部門である。そこで、Webマスターとして、自社のWebサイトの管理者を務めた。既に2名のWebデザイナーがいて、2つのWebサイトの更新自体は問題なくできていたが、専任のWebマスターがいなかったため、自分が専任のWebマスターとして採用されたのだった。

ちなみに、直属の上司は日本語の流暢なアメリカ人。社長も日本語の流暢なアメリカ人だったが、日本通のアメリカ人が多く在籍していたのには、本当に驚いた。IBMのアメリカ人は、英語以外の言葉を学ぼうとしないし、自国の文化を世界に押し付ける横柄な人ばかりだったので、いい意味でのカルチャーショックだった。

入社時の研修の後、数日で現状分析をし、改善策を考えた。最初に手を付けたのは、インターネット接続サービスの商品説明ページ。自分なりの言い回しで、CATVインターネットのよさを表現してみた。また、ほぼ同時期に、近隣のCATV会社4社にインターネット接続サービスをOEM供給する発表記事の作成依頼を受け、並行してページ作成を進めた。こんな調子で、最初の1ヶ月はあっという間に過ぎていった。

そして、驚くことに入社してわずか1ヶ月で、いきなり社長とランチをすることになった。OEM供給の件にかかわった人たちがランチに招待され、その1人として参加することになったのだが、あまりの社長との距離の近さに、本当にびっくりした。IBMに当てはめれば事業部長とランチという感じだが、あり得ない話である。でも、タイタスのアメリカ人社長は、定期的に社員と直接対話する場を設け、社内向けの業績発表のときも、必ず各部門に対して労いの言葉をかけてくれた。また、仕事ばかりでなく、家族や恋人と過ごす時間を大切にしなさいと繰り返し説いていた。社員に対する行動や発言には共感することが多く、自分にとっては非常に心地いい会社であった。まだ20代の若造だったので、そばで仕事ぶりを見た訳ではないが、後にも先にも彼ほどお手本にしたいと思った社長はいない。

その後は、徐々にいろんな部署の人たちと関わりを持つようになり、社内でも自分の存在がいろんな人に知られるようになっていった。同時に、Webの持つ影響力の大きさも実感し、それ故にやりがいも大きかった。IBMにいた頃は、会社が大き過ぎて、自分の会社への貢献度が全くわからなかったが、タイタスでは周りの人たちと一緒に自らの手で会社を動かしているという実感があった。

自分への評価は、そのまま給与に反映され、転職で下がった年収も、数ヶ月で元に戻った。広報の紹介で、転職雑誌の特集にも載せていただき、転職を心配していた両親にも、きちんと活躍している姿を見せることができた。もちろん、嫌な仕事はあったし、苦手な人もいたが、そんなものを吹き飛ばすほど、やりがいのある仕事で、いい人たちに囲まれた。タイタス時代に知り合った人たちとは、未だにつながりがあり、自分にとって大切な宝物である。

しかし、そんな夢のような日は、ある日突然になくなる。入社して7ヶ月目の2000年3月、ある新聞の朝刊に業界1位の会社との合併の記事が載る。その時点では単なる憶測記事だったが、社内に動揺が広がり、いろんな噂話が駆け巡った。それから間もなく、筆頭株主がMicrosoftに代わり、そして、合併が正式に発表された。主要な役職を占めていたアメリカ人は、次の条件がいつまで経っても提示されないという理由で次々と辞めていき、直属の上司だったアメリカ人も8月にタイタスを去っていった。まだ、大半の社員が残っている状態で、人事部長までもが辞めてしまった時は、何ともやりきれない気持ちだった。この頃には「(転職先は)決まった?」というのが挨拶代わりだった。

こうなると、タイタス側は合併相手と対等に交渉できる役職の人がいないため、何もかもが相手の言いなり状態になってしまった。明らかにタイタスの方がよいと自負していたサービスも、相手側のブランド名に変更され、サービス内容も相手側に合わせることになった。また、合併後に全員の椅子が用意されていた訳ではなく、選別を兼ねたインタビューが行なわれた。幸い、相手側に専任のWebマスターがいなかった上、何名かの先輩が自分の名前を出してくれたこともあり、椅子は確保してもらえたが、企業文化が正反対の会社への転籍は、全く考えられなかった。リスクを背負ってIBMを離れたのに、自分が選んだ訳じゃない会社を押し付けられたような気もした。

2000年10月、大半の人たちが合併相手のオフィスに勤務先が変わっていった。ちょうど同じ頃、IBM時代の上司に相談したところ、日本IBMでもWebマスターを募集している部署があるから戻ってこないかと、担当部門に話をつないでもらえた。それから日本IBMとは何度か面接を行なうが、11月末に、正式な内定をもらわないまま、会社には退職の意思表明をする。これ以上延ばすと、どうしても合併先の会社での業務をすることになるからだった。

2000年12月には、合併後に副社長を務めていたタイタスの社長も、ついに辞任を表明した。自分が選んだ会社が、なくなった瞬間でもある。そして、2001年1月、日本IBMから内定をもらわないままの状態で、タイタスを退職した。在籍期間は、わずか1年5ヶ月だった。光り輝いていた時代は、一瞬にして終わった。

そして、ここから長い長い暗闇が始まった。