本日放送されたTBSドラマ JIN -仁- の第8話で、今の自分の心理状態とすごく被るシーンがあった。主人公である仁の護衛を任されている恭太郎が恋敵とも言える歌舞伎役者に土下座してお金を工面した後に、自分にできることはこんなことしかないし、そもそも言いつけられた護衛すらできていないと嘆くシーンだ。龍馬は、それが仁しか作り出せないペニシリンを守ったことにつながり、それはすなわち国を守ったことになるのだと大いに讃え、仁も、最初に出会ったときに見ず知らずの自分のことを命がけで守ってくれたおかげで、今も自分はここにいられるのであり、恭太郎以上の護衛はこの世に存在しないと深く感謝した。恭太郎は、龍馬のように国を動かすような大きなことができる訳でもなく、仁のように突出した才能を持つ訳でもなく、自分の器の小ささを嘆き、でも、そんな自分のことを評価してもらえたことに対する嬉しさなのか、泣き崩れた。

最初の会社を辞めてから、今年でちょうど10年が経つ。高校受験も大学受験も、目標校ではなく実力相応校にしか進学できなかった自分にとって、身の丈以上の存在に思えた憧れの会社が最初の会社であった。そこで多くの優秀な先輩と同期と後輩に出会い、多くの刺激を受け、多くを学んだが、思うところあって辞めた。おそらく、辞めたというより、脱落したのだと思う。

それからの10年間は、最初の2年間を除けば、不安の増幅と自信の喪失ばかりである。今の会社では何度も鬱を経験した。未だにこのままだと鬱になると感じることがある。年齢を重ねるに連れ、確実に以前よりもできることは多くなっているのだが、同時に己の器の小ささや才能のなさを強く感じるようにもなった。会社の同僚と話しているときですら、己の才能のなさに気付かされる場面に何度も遭遇した。まさに、恭太郎の心境である。

最初の会社では、ありがたいことに優秀だと言ってもらえることが多かった。今の会社で初めて鬱になり、先輩に仕事を引取ってもらった際も、よくできているじゃないかと褒めてもらえた。でも、どうしても一流に到達しているとは思えない自分がここにいる。一流になるために努力できていない自分がここにいる。がむしゃらにがんばるしかないのだとは思うが、なかなかそれができない。こうやって、どんどん一流との差が開く一方なのだろうか。


自分40年史 (はじめに)

ちょうど1ヶ月後に、40歳を迎える。不惑には程遠く、未だに迷い悩むことが多い。特に30代半ばからは、キャリアパスを描けなくなり、不安の増幅と自信の喪失を繰り返してきた。その結果、気分の浮き沈みが激しくなり、何度も鬱を経験してしまった。おそらく、どの会社にいても、このままでいいのだろうかと問い続けていたと思うが、どうしてこんなにまで自信を失ってしまったのだろうかと思う。

ネガティブなことは絶対に文章に残さないと決め、ブログにも(最近はさぼり気味の)日記にもポジティブなことしか書いてこなかった。しかし、自分は何に対してコンプレックスを持っているのか、そこがはっきりすれば、自信を取り戻すヒントになるんじゃないかと思い、自分の人生を振り返って主に自分の性格や才能に関する記憶を書き出すことにした。

わざわざブログで公開するような内容ではないが、自分でいつでも読み返せる最適な場所がこのブログであり、自分を取り巻く人にも本当の姿を理解してもらえるよい機会ではないかと思い、このブログを使うことにした。


自分40年史 (保育園)

4歳 - 親子遠足 自分の記憶をたどってみると、3歳か4歳位からのことしか覚えていない。それも、大半はぼんやりしたものだ。ちょうどそれくらいから保育園に通ったのだが、最初の保育園は馴染めず、3ヶ月くらいで辞めたらしい。当時は人見知りが激しく、知らない人と喋ることなどできなかった。人見知りは小学校を卒業するくらいまで続いた。

今の実家に引っ越してきたのが、確か5歳のときだったと思う。当時の人口が1万人に満たない小さな町で、通った保育園は1学年に1クラス。全員が同じ敷地内の小学校に持ち上がりだった。この保育園には馴染め、友達もできた。

保育園時代の記憶で、強烈に焼き付いていることがいくつかある。どれも今の自分の原型とも言える出来事である。

1つ目の出来事は、母が漕ぐ自転車の後ろに乗っていたとき、かかとがスポークに引っかかり、血だらけになってしまったのに、声ひとつ出せなかったこと。もちろん痛かったはずだが、痛いと言えず、ずっと我慢していた。後で気付いた母がびっくりし、何故すぐに言わなかったのかと聞かれたが、うまく答えられなかった。

実は、未だにとっさのことに声を出せないことが多く、「危ない!」とか「すみません」という、普通なら反射的に出るような言葉が出てこない。正確には、心の中では瞬時に叫んでいるのだが、それが声になって外には出てこない。

また、相手のことを非難したり間違っていると指摘できず、自分さえ我慢すれば済むとか、まずは自分の悪いところを直してからと思ってしまう。血だらけになっても、かかとをスポークに引っかけた自分が悪いと思ってしまうのである。それは今も変わらない。自分の考えが相手に通じていなければ、自分の説明が悪いと思い、自分が頼んだことが期待通りに成されていなければ、自分の頼み方が悪かったのか、頼む相手を間違えた自分が悪いのだと思ってしまう。

2つ目の出来事は、親子遠足の時、母が敷物を忘れてしまい、仕方なく新聞紙の上で食べなくてはいけなかったのが、この上なく恥ずかしかったこと。新聞紙の上で食べるのが堪え難いほど格好悪く感じ、かと言って芝生の上で食べるのは芝生が痛くてとても食事どころではなく、どちらも嫌だとダダをこねたのをよく覚えている。結局、どうやって食べたのかは、全く記憶にない。

30代の前半くらいまでは、周りからどう見られているかを気にし過ぎていたように思う。優等生タイプに見られがちなのは、そういうのが影響しているのかもしれない。さすがに今は、もう少し気にした方がいいくらい、鈍感になってきた節があるが。

そして3つ目の出来事は、同じく親子遠足の時、広島空港での集合写真の際に、何故か泣きじゃくり、ひとりだけ先生に抱っこされて記念撮影したこと。どうして泣いていたのか、自分でも全く覚えていない。その頃から、精神的に弱かったのかもしれない。


自分40年史 (小学校)

9歳 - ピアノの発表会 町内には公立小学校が5校あったが、そのうち3校が1学年に1クラスで、自分の通った小学校もその1校であった。ほぼ全員が同じ敷地内にある保育園からの持ち上がりで、みんな顔見知りばかり。運動会も学芸会も保育園と合同でやってたくらいで、小学生になったからと言って特別なことはなかったように思う。

12月生まれということもあり、ずっと身体は小さく、しかも痩せていた。そのせいか、運動能力も平均かそれ以下だった。泳げるけど特別速くはなく、球技はできるけど特別上手ではなく、運動オンチまでいかないが、どちらかというと補欠組だった。対照的に3歳下の弟はスポーツ万能だったので、長い間コンプレックスだった。ただ、父が毎年スキーに連れて行ってくれたおかげで、唯一スキーだけは人並みにできるスポーツであり、これだけは今でも貴重な財産である。

低学年のときは、とにかく本が大好きで、毎日のように図書室に通い、多くの本を借りては読んだ。両親と買物に出かけたときも、紀伊国屋で座り込んで本を読んでいたのを覚えている。学研の科学と学習を6年間購読し続け、毎月、とても楽しみにしていた。将来の夢は学者になること。寝言でも学者になりたいと言ってたらしい。

お盆とお正月には近所に住む祖母が本を買ってくれたが、普段は買えない小学x年生シリーズを読めるのが楽しみであった。ただ、母の方針でいつも1つ上の学年のものを買っていた。1年生のときは小学二年生を買い、2年生のときは小学三年生を買うと言った具合である。6年生になったとき、買う本がないと悩んだ末、もう一度小学六年生を買えばいいじゃないかと気付いたときは、天才じゃないかと思った。

1年生から習い始めたピアノは、4年生まで続いた。ピアノ自体は嫌いじゃなかったが、とにかく練習が嫌いで、いつも課題曲を1日に1回弾いておしまいだった。また、近所に住んでいた同じクラスのカツミちゃんは3歳位からピアノを弾いていたこともあり、いつも圧倒的な才能の差を感じていた。大人になってから母にその話をしたら、そんなしょうもないことを気にしていたのかと言われたが、本人にしてみれば絶対に自分が到達できない領域を目の前で見せつけられた初めての出来事であった。ちなみに、カツミちゃんは学業も優秀で、後に県内最難関校である国立高校に進学し、某国立大学の歯学部に現役合格した。母によれば、今も歯科医師として活躍しているそうだ。

ピアノを辞めた後は、珠算、書道、英語を習った。最も重なったときは、週に4日が習い事の日であった。両親から勉強をしろと言われたことは一度もなかったが、今思えば、教育熱心だったのかもしれない。

ちなみに、学校の成績は常にオール9。今の小学校では考えられないだろうが、成績は絶対評価の10段階。通常のテストの平均点と期末テストの点数を比較し、高得点の方を10で割ったものが成績になる。つまり、体育や音楽を除けば、テストの平均点が常に90点台だったということである。目標は1科目でも多く10を取ることであった。だが、あくまでも学校の成績であり、今の中学受験の基準に照らし合わせれば、遥かに低次元な話だと思う。

実は、教頭先生に国立中学の受験を何度か勧められたが、友達と離ればなれになるのが嫌だという理由で断った。それくらい、中学受験は特別なことであり、競争などない、のどかな田舎であった。

2年生から6年生まで、何故か3学期の学級委員に選ばれ続けた。6年生のときには、児童会長も務めた。リーダー気質というのもあるが、とにかく真面目だったので選ばれたのだと思う。4年生のときから眼鏡をかけていたので、見た目も中身も真面目そのものであった。ただ、真面目の度が過ぎたのか、6年生のときの担任の先生からは、「自分に厳しいのは構わないが、それを周りの人にも求めてはいけない」と教えられた。これをきっかけに、周りの人に期待することを止め、結果、周りの人を頼らない生き方になった。30代になるまで、誰にも相談をせず、何事も自分で決断し続けた。

6年生の時、父が突然にパソコンを買ってきた。当時(1981年)はパソコンではなくマイコンと呼んでた時代で、アメリカのコモドール社製だった。大人になってから父に聞くと、これからはコンピュータの時代がやってくると思ったらしい。最初はゲームばかりしていたが、そのうち見よう見まねでプログラムを書くようになった。解説本に書かれた三角関数って意味がわかんないと思いながら、いろんなことをやってみたものだ。大人になって、コンピュータを使う職業に就くとは、この時は夢にも思わなかった。


自分40年史 (中学校)

14歳 - 中3の体育祭 中学は町内に1校しかない公立校に進学した。中学受験をする人は皆無だったので、町内にある公立小学校5校を単純に合体させたような状態で、1学年で6クラスだった。新校舎ができるまで、校舎は全て平屋建てだったくらい、とにかく田舎だった。

入学式では5校の卒業生が持ち回りで式辞を担当することになっていたが、入学した年は偶然にも自分の小学校の順番だったので、生徒代表として式辞を行なった。そのせいもあり、卒業生32名の小学校だったにもかかわらず、瞬く間に顔と名が知られてしまった。

自分が卒業した小学校は築30年を超えた木造校舎だったため、他校の出身者からは校名をもじって乃美尾(のみのお)原人とからかわれていたが、何故か自分だけはその対象外であった。こんな感じで、優等生タイプだったが故に同級生から特別な扱いを受けることはよくあった。

他人と同じなのが大嫌いで、普通なら学校で一斉に買う学用品も、自分で選んだ製図セットや美術セットを買ってもらったり、通学用の自転車も絶対に他の生徒と重ならないようなものを選んだ。また、新しいことを仕掛けるのも好きで、学校でパソコンを流行らせた。この頃から、流行に乗る側ではなく、流行を作り出す側にいたいと考えていた。

部活動は卓球部にした。理由は、近所の祖父母宅に卓球台があったので少し経験があったことと、入学した年に新設された部で、先輩がいないと思ったからである。入部してみたら、他の部から転部してきた先輩がいたのだが、この頃から古い慣習に縛られず、新しい組織やルールを作るのは好きだった。だから、顧問の先生に坊主を強要されたり、練習中の水分摂取を禁止されたときは、すごく反発した。科学的に意味がないという新聞記事を見つけて抗議したこともあったが、結局は従わざるを得なかった。この先生は1年生のときの担任でもあったが、中学校は小学校と違って生徒自身が自分で考えて決めるところだと言いながら、いつも自分が決めたレールにはめる人だったので、文字通り反面教師として捉えていた。

学校の成績は常に上位だった。特に英語は3年間の最低点が94点で、満点以外は興味がなかった。しかし、あくまでも同じ中学校の中でという閉じた世界の話であった。3年生の夏から通い始めた塾で、本当の実力を思い知らされることになる。

入塾テストを兼ねた県内統一模試では、いきなり国語で1位を取ってしまった。しかし、主要5科目の内、最も苦手なのが国語だったし、見たことのある問題だったような気がする。明らかに実力ではないというのがわかっていたのに、塾の先生はダイヤの原石でも発見したかのような感じになり、志望校ももっと上位校を狙えと、一番上のクラスに入ることになった。

ここからが大変だった。授業のペースは早く、宿題の量も難易度も半端じゃないので、塾の授業が終わった後は自習室でひたすら宿題。当然終わらないので家に帰っても宿題。寝る時間になっても終わらないので、朝起きて塾に行く直前まで宿題。そして、宿題が終わらないまま塾に向かい、授業を受ける。風呂、トイレ、食事以外は、常に勉強。夏休みは1日に14時間勉強する日が続いた。30人弱のクラスだったが、確実に自分より頭がいい連中ばかりで、学校とは次元の違う刺激に満ちていたが、追いかけるだけで精一杯だった。

課せられた志望校は、こんな感じであった。

  1. 国立高校 : 県内で最難関。共学。記念受験校。
  2. 私立高校 : 県内私立校で最難関4校のうちの1校。男子校。目標校。
  3. 公立高校 : 学区外受験は定員の5%制限があったため学区外だと県内公立の最難関。共学。6校選抜制で第一希望が通るか保証なし。実力相応校。

1.と2.は僅差だったが、2.と3.は明らかに開きがあった。実際、1.と2.はかなり難易度の高い問題を解く力が必要だが、3.は学校で習う範囲の問題を取りこぼすことなく得点を積み重ねて満点を狙うという具合に、必要な能力も全く異なる。

2学期も塾に通い続け、ひたすら勉強を続けたが、なかなか1.や2.の水準には達しない。仮に2.に合格しても、中学から内部進学した生徒は授業が進んでいるため、高校から外部入学した生徒は英語と数学に限って週に2回の補習があった。入学後も授業に着いて行くために、ひたすら勉強が必要だ。しかも、男子校。

冬休みが近付いた頃には、2.を志望校として、こんなにしんどい勉強をし続ける意味を見出せなくなってしまった。そして、塾を辞める決意をし、両親にそれを伝え、3.を志望校にした。塾の教室長からは説得の電話がかかり、大学までのことを考えろと言われたが、名前を知ってる大学なんて東京大学と広島大学くらいで、違いもわかっていなかったのに、大学の話をされてもピンとこなかった。だが、両親は自分の意思を尊重してくれた。

塾を辞めてからは独学で勉強し、3.に見事合格した。6校のうち、第一希望に入学することも叶った。実は、6校の希望順も、親の意に反して、こっそりと自分の希望校を第一希望にし、合格発表の後で事後報告した。

1.と2.は挑戦したものの完全敗北。当然の結果だったが、自分の中では自分で決めたことを貫き通すことができて、喜び以外何もなく、充実感でいっぱいだった。また、同じ中学からの進学者がいなかったのも開放感を感じた。中学では、周りの人が優等生の型をはめてしまい、そこから逸脱した行動をとると「あのxxくんがそんなことするの?!」と言われ、本当の自分を出せないのが実に窮屈だった。素の自分を出せる環境を手に入れられることになり、本当に嬉しかった。

ただ、今思えば、塾を辞めてしまったのは、挑戦せずに逃げたということだったのかもしれない。行くかどうかは、合格した後に考えれば済む話なのに、挑戦する前に脱落したのだと思う。

そして、進学した公立高校は、思い描いていた学校とは違っていたことに、入学した後で気付くのであった。